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Outside

Something is better than nothing.

眠りの記憶

個人
 いくつもの眠りの記憶の中で印象的なのは幼少期のことだ。
 アリス症候群の範疇に入るのかもしれないのだが、私は熱を出して眠っているときに部屋の中に取り残されたと感じ、同時に部屋の中の自分の位相が急に掴めなくなった。部屋と私との関連がいったん切断され、中心のベッドに眠る私の点が観念上大きくなりすぎたために部屋のあちこちのバランスが失われていった。私はひとり疎外感を味わっていた。
 数多のものから拒絶されたという実感。
 これは今でも感じられるもので熱を出すと急に感覚が幼少期に戻り、私はさまざまなものからの拒絶を味わいながら夢うつつの中をたゆたうのだった。ただ覚醒の中で熱を感じたところでそれは生への執着をより強く感じるだけで特段そういった甘美な瞬間を味わうことはない。例えば図書館の中で私が本を読みつつ熱による疲労からこうした眠りに陥ったとしても、そこには妙な現実感がつきまとい(例えば「閉館時間は大丈夫だろうか?」というような)私はあの甘美な眠りに没入することができない。職場でインフルエンザで立っていられなくなったときの私はガチガチに震えて妻が迎えに来ないと歩けないくらいであり私は強烈に死を意識したのだが、そのときの熱は死とあまり隣接していたために生を忘れて浮遊することはなかった。
 そのように考えていくと、この浮遊感は絶対的な安全圏のうちにいるときに感じられるものであることが分かる。その中で私は病んでいき、しかし体は回復を目指していく。現在進行形で生へ関わろうとするあり方の中ではそういった眠りの甘美さからは遠ざけられてしまい、このような病みつつ回復するといった矛盾した道筋の中に、初めて甘美さを味わう余裕とでも言えるものが生じるのだろう。
 蛇足として。甘美さをもたらすものとしては淫夢が挙げられるだろう。私が初めて見た淫夢はなぜだか明確に記憶していて、別に好きでもなかった同級生の女性が裸で屋根の上にいて、私と彼女はそういう風にしかなりえないのだからそういう仲になるというもので、白い乳房の記憶が今でも頭にこびりついている。日常の中で彼女に再会したところで何かがあるわけでもないのだけれども、淫夢の甘美さだけはその後の夢に影響を与え続けている。淫夢の原型というものが、そこにはあるのだろうと思う。