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Outside

Something is better than nothing.

徳用ソーセージの不味さ

 あまり味というものにこだわりを持たないということは、食べ物の好みの問題ではなく、私には味が分からないのではないかという不安や舌の味わうことに対する謙遜から来るものではあるのだけれども――あるのだけれども、かといってまったく美味いことや不味いことに無関心というわけでなく、誰でもグルメ評論家気取りになることのできる今日日、むしろ評論することの方が恥ずかしいのではないかという居心地の悪さから私は味が分からないということにしておいた方が無難ではないかという、いったい誰に対するものなのか分からない戦略である。とはいえ、年を取るに従って味の良し悪しを経験的に理解することができるようになってきたことは事実で、それは図書館における配架のような分類の次元ではあるものの――決して論評ということではない、そこには論理性や具体性はなく、食べ物を美味い不味いのどちらに分けるかということだけが問題なのだ――ささやかながらの評論行為を行ってはいる。
 先日、私はスーパーに買い物に行った際に、ふと徳用ソーセージのポップが目に入った。実を言うと、これまで生きてきてたぶん徳用ソーセージなるものは食べたことがなく、思い返せば上京当時のあまり自由にならない身分であった私ですらソーセージといえばシャウエッセンや森の薫りウインナーを買っていたわけで、徳用ソーセージを買ったことはなかった。というよりも、そもそも視界に入ったことがなかったということが正解かもしれず、かといって贅沢趣味というわけでは決してない。なんとなく、というもの、つまり惰性というものは恐ろしいことで、私は惰性でずっとソーセージはシャウエッセンないしは森の薫りウインナーだと思っていたのだ。酒を飲むようになってからは、外国から輸入したと思しきものを購入したことはあったが(ブランド名は覚えていない)、しかしそれらは一般的なソーセージやウインナーなどよりもはるかに高級なもので日常的に食べるものではなかった。妻が買ってくるものも、安物というわけではない太い肉厚のもので、だから私は人生で初めて徳用のソーセージを購入したことになる。
 ソーセージは焼いてよし煮てよしの万能の食材であることはかねがね知っていたので私はそれを使って酒のつまみ、スープ、朝食のお供として考えていたのであったが、いざ買ったその日に料理してみてびっくりしたのは味がない。まったくというわけではなく、例えばシャウエッセンにあったような肉の感じがまったくなくなっており、たしかに肉らしきものを食べているような感じはするのだが、味がすかすかなのである。そのためスープに使ったところでいつもよりもコクがない。焼いたところで表面にカリッとした張りもない。徳用ということで大量にあるそのソーセージは、どうしようもないのでスープに大量に入れることでなんとか消化することはできたものの、もう二度と買うのはご免だと感じ入った。そうしてみると普段何気なく購入しているソーセージの、なんと質の高いことか!
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