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Outside

Something is better than nothing.

矯正の絶えざる限界

 十八歳以来となるということに少し驚きを感じながらも、私の今の年齢が二十七歳だから九年という年月が流れたことになるのだろうか、私はひさしぶりにコンタクトレンズを装着していた。眼鏡をずっと装着していたため、無意識に眼鏡を直すための動作を行ってしまうことが気恥ずかしくも感じられる。特に大した理由もなくふたたび作ったコンタクトレンズ(眼科に行ったときに医者に「運動するときに眼鏡だと邪魔になるので」と言いはしたし実際そのときはそう思っていたのかもしれないのだが、よくよく考えてみると私は日常的に運動などしないのだった)は、しかし眼鏡と比べると圧倒的に視界がクリアであり、着けていると近眼であることを忘れるくらいにはっきりとした世界の様相が当然の顔をして眼前に広がる。思えば眼鏡をしているときはレンズの及ばない箇所から、私自身の持つ視力の限界が常に示されていたわけで、コンタクトレンズのように瞳を覆うことのない眼鏡は矯正の絶えざる限界を意識させる装置なのだった。そして何より私を困らせたのは夏場、汗を掻いたときの前髪から滴る汗であり、だらだらと流れ落ちる汗がレンズを汚し私の視界をも汚していく。近眼であるということは矯正の絶えざる限界がつきまとうということであり、それとどう折り合いをつけて生活をするかということなのだった。
 とはいえ、コンタクトレンズを万能な装置として捉えるにはいささか注意が必要であり、それはまず金銭的な負担として立ち現れることになるだろうし、眼鏡とは違って定期的に処方箋を貰わないことには手に入れることのできない一種の薬でもあるし(ちなみに私は他に二箇所の病院にも定期的に通っているので、薬を手に入れるためにそれなりの時間とお金を費やしていることになる)、ドライアイを医者に指摘され自分でも自覚している私の乾きがちな眼球からしてみればコンタクトレンズをすることは余計に乾きに目を晒すことにもなりかねないわけであるし、とにかくさまざまな障害がコンタクトレンズにはつきまとうことになる。
 そもそも私がコンタクトレンズから眼鏡へ移行したきっかけは、高校三年生のときの出来事によるものだった。そのときの私はたいそう怠け癖がついており、授業も碌に聞かない進学校の中の落ちこぼれの一員であったが、授業中に授業内容が理解できないこともあってコンタクトレンズをつけたまま眠ってばかりいたので、前述の通りドライアイな私の眼球の中で乾いたコンタクトレンズが眼球を傷つけてしまい、黒目にカサブタができてしまったのだった。当時の私は目にごろごろするなという違和感を覚えてはいたものの、当面の間は頻繁に目薬をさすことで違和感をごまかし、むりやりコンタクトレンズを装着していた。しかし、その状態でさえ装着したまま机に突っ伏していたので、カサブタが治ることもなく常に黒目は傷に覆われ再生の途上にあり続けるのだった。私は医者に行くことにした。遅すぎる、と今では思うのだが無知とは怖いもので、行動へ到るためのコストが異様に高いのである。結果、カサブタの存在が判明し、私は当面の間はコンタクトレンズを装着しないようにと言い渡された。
 かくして眼鏡をするようになったかといえば愚かな人間は懲りないようで、私はカサブタが癒えたと感じてからふたたびコンタクトレンズを着用するようになり、しかも授業中にいつものように眠るのだった。授業についていけない落ちこぼれは、授業に参加することができないがゆえに眠るしかないのである。午睡の恍惚とした快楽を、何度貪っただろう。冬の生物の授業中、午睡からふと目覚めて窓の外を見ると、雪が降り始めたことがあった。あのときの美しさといったら!(ちなみに「輝き」という小説にそのときのことは書いている)。寒さを和らげるためにつけられた暖房による冬眠への甘美な欲求を引きずったまま寝ぼけ眼に映ったのは、その地方には珍しい雪なのだった。しかし美しさには代償がつきまとった。繰り返す惰眠によってふたたびカサブタができてしまい、私はふたたびコンタクトの使用を中止したのだった。
 度重なる粗相の中で、私はだんだんと真理に近づきつつあった。それはこういうものだった。勉強する身分である限り、コンタクトレンズを装着してはならない。私はようやく経験から学んだのだった。それからの私はコンタクトの使用を控えて眼鏡をかけるようになり、授業中どれだけ眠ってもカサブタのできないことに新鮮な喜びを覚えるようになった。私はある矯正の絶えざる限界から逃れ、別の矯正の絶えざる限界を受け入れたのだった。
 また、コンタクトの使用を止めて日常的に眼鏡をかけるようになってから、眼鏡の別の価値に気づくようになった。それは眼鏡は人間の顔面を修飾する、最もありふれた道具の一つである、というものだ。もともと大した顔面は持っていないものの、私は眼鏡をかけた方が顔としては見られるものになる。というのは、私は目の下の隈が酷く、それを眼鏡によって隠せるからだ。寝不足や疲れているときは余計に隈が酷くなり、暗闇からぬっと顔を出すと図らずとも驚かれるような顔面なのである(コンタクトレンズを着用していた時代、たしか体育祭の練習後のことだったが、友人にこう指摘されたことがある――「まるでゾンビみたい」と)。地元の眼鏡屋で買った眼鏡のデザインをたいそう気に入ってからというもの、私はその眼鏡しか着用していないため容姿としての一貫性もある。おおよそ七年くらいだろうか、一度妻に踏みつけられて壊れかけたが、しなやかなフレームを持つその眼鏡は少し手を入れるとすぐに元通りになって今でもコンタクトレンズを装着していないときには、私の顔を修飾している。
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