Outside

Something is better than nothing.

具体性から抽象性へ

 仕事を始めたときに研修担当からこのようなことを言われた。
「私はどこかで自分の仕事が世界平和に繋がっていると考えながら、仕事をしている」
 室内は失笑めいた静寂で満ちた。その空気に同調して、私もその場では一笑に付した。しかし、研修が終わってから、何度も考えることになるその言葉となった。なぜなら、それは仕事に対する意味を、具体的なものから抽象的なものへと高めるものだからだ。
 なぜ働くのか。
 この問いに答えることは、簡単なようで難しい。働くことは、苦痛を伴う。楽しくない。遊びの要素があるから、楽しいところもある。けれども、お金を貰う以上、楽しいことばかりではいられない。人間関係も面倒臭い。総じて考えると、やはり働きたくはない。
 お金持ちならば、働かなくてもよい。しかし、私は貧乏だ。働かなければ、すぐに経済的に困窮してしまう。資産など持っていないからだ。
 先日読んだヴォルテールの『カンディード』の中に、こういう一説があった。

 私は貧しさと汚れにひたったまま年老いました。お尻も片方しかありません。もとは教皇の娘だったことを、いつも思い出してしまいます。何度も自殺しようと思いながら、やはり命は捨てたくないとも思うのです。こういう滑稽な意志薄弱が、おそらく私たち人間のもっとも情けない性分のひとつでしょう。だって、重荷を地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思うなんて、もう愚劣の極みではありませんか。私たちは、生きていることがどれほどおぞましくても、それでも命に執着する。つまり、最後には自分の心臓まで食べられてしまうのに、人間はやがて自分を飲みこむ大蛇を愛おしそうに抱えている。(ヴォルテールカンディード斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫、2015年、73頁)

 この破天荒な哲学的なコントの果てに、有名な「庭の教訓」と呼ばれるものが語られることになるのだが、それ以前のカンディードが船の中で老婆の話を聞くところでこの言葉は出てくる。彼女はその昔、ここで語られるように教皇の娘として過ごしたが、さまざまな苦難の果てにこのようなことを述べている。
 たしかにここに書かれている通り、私たちは「重荷を地面に投げ捨てたいと思いながら、それをずっと担ぎつづけたいとも思」っている。自分の畑を耕さなければならない、という結末はさておき、自分たちの仕事や家庭、言ってみれば人生というものに対する老婆の省察は、実に鋭いと私は思う。私も不謹慎な話、早く死にたいと思っている。だが、人は死なない、すぐには。そして文句を言いながら、明日も明後日もそれぞれの人生を歩む。
 未来は絶望的であるにもかかわらず、人々はやがては死ぬにもかかわらず、なぜ働くのだろうか。
 そこに具体的な物の手触りではどうしようもない抽象性が求められるようになるのではないか。
カンディード』はヴォルテールリスボン地震を受け、かつて自身も信奉したライプニッツの「最善説」と呼ばれる、神によって造られた世界は全体としては最善となるように造られている、といった考え方(ヴォルテールライプニッツの射程はかなり違うので、引用した古典新訳文庫の解説を読むと分かりやすい。ここでは前者の射程で述べた)への反駁のために、このコントを書いた。人は物事に意味を見出してしまう生き物であり、同時にその意味なくして生きられない。有名な話として、一日目は穴を掘って山を作り、二日目は山を崩し、穴を埋めるといったサイクルを繰り返させると、人は発狂してしまう。これはドストエフスキーカミュ著作で触れているらしいが、私は読んでいない。しかし想像すると末恐ろしい話である。行っていることの実際性のみを見ると、これらの行動には意味がないように思われるが、神と人との関係性に目を向けたときに、果たして人間は意味を見出すのである。
 人は自力では救われない。たしかに現象の具体的な意味を求めるのみならば、シーシュポス的な労働になってしまう。しかし、そこに超越的な抽象的な意味を見出せば、人は継続することができるようになるだろう。
 研修担当が言っていたこと、それはここまでの射程はきっとなかったのだろうと思う。だが、具体性から抽象性への移行は、どこかで行われなければ人は意味というものを見出せない。あらゆる仕事が、前述のような世界平和に繋がるわけではなかろうが、結果的には生きることには繋がる。ここで述べたことは短期的な意味ではない。ある仕事が、あるニーズに応える、といったことではない。その果てしないサイクルの中に、私自身が参画する必然性というものに対する意味だ。