Outside

Something is better than nothing.

断片化された恋愛

 正直なところ、自分自身の持続的な生(人生というと少し大仰なのでこう述べた)はどうでもよいと思っていた時期があり、それは積極的な堕落を選択するという意味でなく、生活の過程において持続を意図しながら経年によって少しずつ劣化していくような、そういうイメージとしてあった。ある面では今もって変わらないと思うのであり、ただ持続的な生を少しでも上向かせようとする真っ当さは、恋愛とそこから発展した結婚によってもたらされた。

 恋や愛といった概念の操作は難しい。柄谷行人の『日本近代文学の起源』を経由して柳父章の『翻訳語成立事情』を以前に読んだ際に、恋愛の概念については一度整理したことがあるのだが、なにぶん数年も前のことになるので、今や引用の痕跡が残るばかりである。

 「恋愛」もまた、「美」や「近代」などと同じように翻訳語だからである。この翻訳語「恋愛」によって、私たちはかつて、一世紀ほど前に、「恋愛」というものを知った。つまり、それまでの日本には、「恋愛」というものはなかったのである。
 しかし、男と女というものはあり、たがいに恋しあうということはあったではないか。万葉の歌にも、それは多く語られている。そういう反論が当然予想されよう。その通りであって、それはかつて私たちの国では、「恋」とか「愛」とか、あるいは「情」とか「色」とかいったことばで語られたのである。が、「恋愛」ではなかった。(柳父章翻訳語成立事情』岩波新書、1982年、89頁)

  まあ、もちろんこの考えは今ではかなり危ういもので、さまざまな批判的検討されるべきものであり、あくまで一例として示しただけである。ただ文学部だったこともあり、漱石の『それから』などを通じて、「愛」の問題について書いたことはあった。ただし、ここでは込み入ったことは扱わず、枕として『翻訳語成立事情』を示してみたかっただけであり、ここからは「恋愛工学」とタラレバこと東村アキコの『東京タラレバ娘』(講談社、2014年から連載中、現在既刊3巻)についての考えを書いていきたい。

 そもそも「恋愛工学」という言葉を知ったのは、どこかのまとめサイトでだったかと思うのだが、そこでは否定的な文脈で扱われており、私もその内実を知らないにせよ、そこで言及されている事象について肯定的に捉えることはできそうになかった。これを学ぼうという意欲はまったく湧かなかったので、これについての言説を元に想像する限り、「恋愛工学」とは女性といかに効率的にセックスに持ち込めるかということを追及したメソッド、という印象があり、女性に対する内面を一切認識することなく、あくまで男性側のゲームとしての快楽を追及する、といった感じを受けた。

 かくして私にはあまりよく分からない価値観の下でさまざまな言説が繰り広げられ、その結果たくさんのセックスとセックスに至らなかった行動とが積み重ねられていると思う次第で、ただ一人の愛する女性を得るための行動というよりは、かなり現代的な即物的な考え方であろうと思う。少なくとも学問ではないため「恋愛工学」とカッコをつけて記しているのだが、要するにそういうことだ。

 他方で、女性に強いられた価値観というものがあり、それがともすれば差別的な言葉を投げかけられるきらいがある「結婚」というイベントがあり、アラサーの女性たちが生涯未婚のままになるかもしれない、ということでさまざまな行動をして、結婚しようと画策するが「何々できタラ」「何々してレバ」みたいな言い訳をしてしまうがゆえに結婚できないことに対する一刀両断っぷりを笑うコメディ漫画で、人気があるし、私もけっこう好きだ。

 で、この両者はさまざまな批判に晒されている。私も後者は好きではあるが、すべてを受け入れられるわけでもなく、いくつか首を傾げるところもある。前者の考え方は好きではないが、しかし多くの女性とセックスしたいと思うこと自体については否定できないだろうとも思う。それぞれのアプローチが、それぞれの文脈において微妙に変な方向に向かってしまっているがゆえの状況であり、川上未映子のタイトルだけやけに印象的で実際に私は読まずじまいになってしまった「あなたたちの恋愛は瀕死」ということをなぜだか思い出すのだった。

 ネットでの言説を見るに、さまざまな価値観が溢れている。未婚の男性らしき人物が述べる、「未婚の女性」の価値観。未婚の女性らしき人物が述べる、「理想の男性」像およびそれに巡り会えない不運。既婚の男性らしき人物が述べる、「墓場としての結婚」。既婚の女性らしき人物が述べる、「忍耐の修行としての結婚」など。

 人の数だけさまざまな言説があり、例えば私も上司や先輩に対して「いやあ、うちじゃ嫁が厳しくって……」みたいな上っ面のことを言ったりもする。世間のイメージに沿った言説をここでは述べていることになるが、これはあくまでイメージであるので、実質とはかけ離れている。

 このイメージの操作を目論んだのが、主として後者だと思う。つまり、世間にあるイメージに対して(想像上の、しかし存在しないキャラクターに対して)、一刀両断することで面白みを呼び起こすわけだが、同時にその存在しないがゆえのリアリティーが、女性に対する「喝」のようにもなっており、ある選択に対してここが間違っているという強烈なメッセージを伝えることになる。

 前者も似たようなもので、セックスをするという動物的欲求に対して、「恋愛工学」というもっともらしい科学性を付与させ(つまり現代における最も権威のある属性を付与しようとする)、ゲーム性の中で自分が絶対に傷つかない方法をもってしてセックスに至るメソッドを強化する。それは自分自身を典型化、イメージ化していくことに他ならず、例えば「ヤリチン」という具合にイメージ化される。

 両者は異なっているようで、価値観を外部から操作しようとする点において同一である。前者は自身を、後者は他者を。

 恋愛において、あるイメージが決定的な未来を持っているかのようになっている。「メンヘラ」「ヤリチン」「非処女」「モラハラ男」など、タームはさまざまだろうが、あるイメージを背負わされた人間は、イメージに沿った役割を、そして価値観を持っていると見做される。そのとき、恋愛の持続性はいったい何によって担保できるのだろうか。人間はその中に状況や時期によってさまざまな顔を、イメージを持つ。その中のあるイメージが、あるタイミングにおいて運命づけられた瞬間に、当人の未来は予定されてしまうことになる。その軽薄さが、現代的な即物性に結びつくことにもなるのだろうが、結果的には恋愛が非常にこま切れとなり、断片的になってしまっていると思うのであった。