Outside

Something is better than nothing.

個人

歌に満ちた生活

子育てをしている中で思いのほか驚いたのは、子どもと過ごす時間の多くが歌に満ちていることだった。子ども向け番組で耳にした歌を口ずさむ。子どもが覚えた歌を口ずさむ。昔の歌を口ずさむ。うろ覚えの歌詞を適当にごまかして歌を口ずさむ。 そうでなくとも…

泰然と超然

ひたすらモチベーションが低下していく中で子育てというファクターだけが強化され、その喜びだけが生きるための糧になっているような気さえしてくるものなのだが、では今年、子育て以外に何をやったのか、あるいはやらなかったのか、ということを考えるにつ…

檄文と檄データ

あまり時間を作る機会に恵まれなかったこともあって、まとまった文章を書くことはなかったものの、仕事の中ではほとんど毎日、それなりの分量の文章を書く機会に恵まれて、それはいいことなのか悪いことなのか分からないけれども、とにかく「書く」というこ…

抽象性から抽象性へ

先日、千葉雅也の『現代思想入門 (講談社現代新書)』を読んでいたときに、以下の文章に出会った。 その後、レヴィナスはもうひとつの大著で、ひじょうに大胆なキーワードを出してきます。それは著作のタイトルなのですが、「存在するとは別の仕方で」という…

子のいる人生

2022年はロシアによる一方的なウクライナへの武力侵攻に想起される暴力のイメージが横たわっているように思われる。本邦においても、安倍元総理の銃撃、これに伴う旧統一教会の諸問題といった具合に。 さはさりながら、私にとって2022年という年はひたすらに…

一度に一つの生

フェラーリ (…)ところでボルヘス、こうやってあなたと話しているうちに、ストア主義とあなたとのもう一つの共通点に気づきました。たとえば、定められた仕方でこの生を生き、来世にはあまりこだわらないという考えです。 ボルヘス ええ、それを言ったのは…

想像された靴の心地

一年間という時間を一つの区切りとして捉え、そこに総括を行うという営為を否定する必要はないにしても、なぜ我々はこの時間という区切りなくしては、何かを一つのまとまりとして捉えることが難しいのか、ということについて少し考える必要があるのかもしれ…

あるいは、「自分で考える」こと

仕事で人と話していると、よく「自分(の頭)で考えないとね」といったようなことを言うケースに出くわす。言葉尻だけ捉えればまさにそうなのだが、しかしその内実は人によってかなりベクトルの異なることを言うケースが多く、それらに出くわすにつれて私は…

黎明のプリンシプル

「プリンシプルのない日本」という言葉を何となく耳にした覚えがあったまま、このプリンシプル(principle)という言葉の、一種耳慣れない具合に意味を曖昧に宙ぶらりんの状態にしておくと、金融庁でプリンシプルベースを謳う顧客本意の業務運営(Fiduciary …

引越しのこと

二度目の緊急事態宣言が発出されたのが一月八日だったと思うが、それが発表されたのが前日で、我が家は微妙な時期に引越しを行ってしまうことについて非常に不安な心持ちでいた。そもそもいつなのか、あるいは発出されたとして引越しができるのか、と。 結論…

数々の毀損と後退

2020年という年がもともと喜ばしいものとしてあったのかどうかということを考えるとそうでもないような気がしないでもない年の瀬に、今年の振り返りを行おうということはどこか暗く、そして冷たい予感を覚えるのだが、しかしそれは致し方ない類のものである…

遠い感覚

少し前に鎌倉に行って、その海岸線を歩いた。どうしてだかふと海に誘われて、というような感覚があって、どこにも行く予定がない連休に私たちは海岸に立った。秋口で、まだ肌寒さはなかったけれども、海水浴のシーズンではなかったから人は少なく、それに世…

見放された音楽

父はよくギターを弾いた。母の顰蹙を買いながら、母と息子は父の奏でるギターと下手くそな歌を聞いていた。しかしながら、こう言っては何だが、楽しそうに歌う父の姿は印象的で、彼のようにギターを弾いて歌を歌えば自分はなんて幸せなんだろうとも思った。 …

学ぶことの射程

少し前から読書猿の『独学大全――絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』を、その名に相応しからぬ最初から最後まで読もうとする方法で読んでいるのだが、しかしそれでも面白い。まだ半分を少し過ぎたところであるのだが、血肉化できて…

動画と音楽

新型コロナウイルスに関連して、通常業務の激務っぷりに拍車がかかったこと、そして今年度からやや体制面が変わって(というか端的に言えば、「ボス」が変わって)、七面倒臭い仕事ばかりやらされているような気がしていたのだが、ここに来て動画を軸に何か…

同語反復的な、忙しさ

むしろ師走よりも忙しかったのではないか、と思わなくもない、おそらく多くの企業では閑散期とでもいうべき時節であろう二月を過ごした後、私は未だかつて経験したことがない残業量をこなし、いざ給与明細を確認すると、何のことはない、今年度の四月の方が…

夢の橋

瀬戸内海の穏やかさは、今思うと少し何もなさすぎるような気が無責任にもする、という書き出しで私は今朝方夢を見たことの、その続きとして、あの海の穏やかさを想起したのだが、夢の中で私は尾道大橋を自転車で通行しようとしていてーーそれ自体は頻繁にあ…

その場しのぎの靴

須賀敦子の『ユルスナールの靴』の冒頭には、「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。」(白水uブックス、P.11)という言葉が置かれている。私はこの言葉を読んだ瞬間に気に入って、後でメモに残しておこうと付箋を貼った…

読むことの適合

致命的と思うような事柄について、それを糊塗するための嘘やその場凌ぎの誤魔化しを繰り返した挙句に、時間という波にすべてを浚われてしまって、気づけば泳ぐ術すら知らないのに沖合の陸から遠く遠く離れた地点で、途方に暮れて漂っている。それが今年を総…

太るということ

体重の変化に伴う諸々の身体感覚の変化、ということについて、私は長らく無縁だった。峰なゆかの『アラサーちゃん』シリーズのどこかで、文系くんと名指された男性が、三十代という時間軸に身を置いたときにお腹の部分だけがぽっこりと「太り」始める段に至…

コンディションの恒常性

たぶん誰にでも訪れるであろう代物ではあるのだろうが、三十歳になってから周囲との関係性や、二十代ならば抱きうるものだった熱情がすっかり失われてしまって、体の奥底にある熾火のような、熱はあるものの、けれどもどこか距離があるような、そういう状態…

数字は嘘をつかない式の読解

とても嫌いというわけではないのだが、私は数学についてはあまり得意ではない――というのは大学は文学部であったし、逆算すると高校二年生くらいから文系の授業を受けることになっていたので、数学についてはややおざなりな傾向があったように思う。とはいえ…

愛に適した日々

総括すべき物事があるのかと言えば、日々、由無し事によって濁流に飲み込まれるように自分自身の存立を脅かされ、まさに「私」というものがだんだんと他者の領域にまで追いやられている気がするのだし、例えば山崎ナオコーラが「慧眼」(男と点と線 (新潮文…

重なりあって、続いていく

いつの間にか生まれてから三十年もの時間が経ってしまい、その三十年の半分は、つまり高校生とかそのくらいの年齢になるわけで、そういう時代の自分の存在について、つらつらとよしなしごとを考えていると、時間のあまりの茫漠さについて、途方もない感じを…

九月病のリズム

秋口になると不思議なもので、私は「九月病」と勝手に呼んでいる気分の落ち込みに見舞われる。これは1週間とかそこらで終わるようなものではなく、ほとんど1ヶ月近く続くもので、その期間中には普段は酒が好きなのにめっきり飲まなくなったり、仲良かった人…

身体のメンテナンス

先月は延々と対象不良に悩まされた挙げ句に仕事上のトラブルが相次ぎ、業務運行について現行スキームを見直す必要が生じたところで、しかし体調が悪い、何もしたくない、誰とも飲みに行きたくないという状態に陥った。その陥穽はあるいはバイオリズムとでも…

コミュニケーションを肯定できるようになった

比較的最近になって、コミュニケーションを肯定できるようになってきた。学生時代はさておき、社会人になってからというもの、例えば日常的な挨拶や顧客、あるいは上下関係を前提としたコミュニケーション等、さまざまな局面におけるコミュニケーションが苦…

夜の更新

酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、 また青春の唯一の効果だ。 ハイヤーム『ルバイヤート』(小川亮作訳、岩波文庫、P.101) 楽しい面々と飲んだ後に、「お疲れさまでした」的な展開となり家路に就く頃には、どれだけ酔っていても、ああこの飲み会はその瞬間…

不滅の身体

ふとした瞬間に、自分の抱える半永続的な病と、同時に今ここにある肉体の不滅という意味での永遠を思うことがある。それは眠れない夜、世界にひとり取り残されてしまったような感傷を覚えたときにやってくる。 肉体が傷を負ったとき、痛覚という観点から自分…

道すがら

人生が楽しくない瞬間というのは、楽しかった直後にやってくるのが常なのか、大体にして楽しい宴会の後、ひとりで帰っているときにそれは襲ってくる。享楽的な振る舞いを持続することのできない体力のなさが、結果的にはその享楽自体の代償を支払う羽目にな…