Outside

Something is better than nothing.

『ナイトクローラー』(2014年)

 ダン・ギルロイの『ナイトクローラー』を観る。

 ジェイク・ジレンホール演じるルイス・ブルーム、通称ルーは工事現場でフェンスを盗んだり、それを咎めてきた警備員の腕時計を盗んだりして小金を稼いでいたが、ある日、事故現場に遭遇した際にその様子を映すカメラマンに出会ってから、そういう職業に興味を抱くものの、彼らのクルーに加わることはできず、仕方なく自転車を盗んだ金を使って撮影器具等を購入し、映像を売り始める。その過程でテレビ局のレネ・ルッソ演じるニーナ・ロミナというディレクターと出会い、また金に困るリズ・アーメッド演じるリックを相棒とする。ニーナによると、富裕層に対するマイノリティ側の暴力という名の物語を視聴者は求めているらしく、その物語に基づいた映像をルーは提供していくこととなる。やがてルーはある邸宅で起こった事件を警察の侵入する前に撮影し、犯人たちの映像を秘匿、その後独自に犯人を探し出し、人が多い料理店にいるときに通報して銃撃戦となった様子を撮影するなど状況がエスカレートしていくものの、最終的にニーナには感極まって感謝もされるのだった。

 ジェイク・ジレンホールが極めてシャープに悪役を演じているものだから、観ているこちらはただその悪役っぷりを堪能すればいいだけであり、そしてこれはある種『ゾディアック』でマンガを描いていたロバート・グレイスミスとさほど変わりはないのではないか、という気さえする。もちろん『ゾディアック』については、たとえば世界精神に触れたことをきっかけとして、という評も成り立つのだろうが、本作においては端的に「適職」を見つけたにすぎない。

 やや強引な持っていき方をするとすれば、この「適職」の不在と自己啓発的な思考様式に基づく帰結こそが、資本主義というよりはネオリベラリズム的な生活様式を表す世界精神なのだと言えなくもないのかも知れないのだが、あまり面白いとは言えない。

 どちらかといえば『ブルーベルベット』のように、夜の世界に脚を突っ込んでしまった人というべきなのかもしれず、しかし『ブルーベルベット』のように天使は現れなかったし、その可能性があったかもしれないニーナこそがそもそも、この職業が求められる構造に加担しているのだから、世界はあらかじめ崩壊しているのだ、という方がむしろ正しいのかもしれない。

 とはいえ、私はこの作品がかなり気にいったことは確かで、私たちがともすれば見落としがちであるのかもしれないのだが、私たちの近代以降に行ってきた多くの「仕事」は、要するにここでジェイク・ジレンホールがほとんど瞬きせずに相棒を間接的に殺してまで掴もうとしたものである、ということなのだろう。

『グリーン・インフェルノ』(2013年)

 イーライ・ロスの『グリーン・インフェルノ』を観る。

 ロレンツァ・イッツォ演じるジャスティンは、例によって自堕落で偽善的な大学生活を送っていたのだが、ある朝に行われていたハンガーストライキを見たのをきっかけに積極行動主義に興味を持つようになり、そのままなし崩し的に油田を開拓するためにジャングルの原住民を排除しようとするグループの仲間に入るものの、彼女の父親国連に勤めていたため、それを元に人質的な使われ方をしてしまって怒り狂っていたのだが、帰り道に飛行機が墜落してしまい、助けようとしていたはずの原住民たちが食人族だったため、仲間が続々とやられていってしまう。しかし、例によって生き残るのだった。

 ほとんど創意のない映像といえばそうで、もちろんジャングルの緑の中に現れる異様な(と言いつつさほど異様でもない)赤い部族と血の色がマッチングしていき、その中で処女性を崇められるジャスティンは白く塗りたくられていくといった具合に、政治的には相当正しくない映画ではあるものの、政治的に正しくない割に極悪非道かと言えば、檻の中で仲間が死んで行く中、自慰をしているくらいがせいぜいクレイジーなもので、つまりどういうことかと言えば手ぬるいのである。

 もちろん残酷さ、ゴア描写の面白みはあるのだが、残念ながらゾンビにお株を奪われた嫌いがある。心理的な残酷さというのは、すでにサスペンスが代替しているような気もするし、どうしようもないポストコロニアリズムをふんだんに抱えた映画というのもまた腐るほどあるのだし、じゃあここで描きたかった人間の偽善やどうしようもなさって一体、と思わなくもない。せいぜい大学生が抱く社会の偽善、程度なのか。

 雑に言えば観客を舐めているのである。

『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』(2015年)

 サム・テイラー=ジョンソンの『フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ』を観る。

 ダコタ・ジョンソン演じるアナスタシア・スティールは大学生で、熱を出した友人に代わって学生新聞のインタビューのため、ジェイミー・ドーナン演じるクリスチャン・グレイの元に向かった。彼は若くして成功して大富豪になっていたため、その秘密に迫ろうというものだった。彼女はおずおずと質問を切り出し、高圧的なグレイはその様を嗜虐的な気持ちで楽しんでいたものの、彼女の純真さが何か気にかかったのだろう、だんだんと心が惹かれていく。そして男性経験がないアナもまた、グレイの性的な魅力に惹かれていくのだった。しかしグレイは誰にも心を開かない男で、なぜなら過剰な支配欲と嗜虐趣味を持っていたためであり、彼と恋人になるにも秘密保持契約を取り交わし、その後の本契約を経た上で行わなければならないほどだった。かくしてアナはそんなグレイとの間に愛を育めるのかと心配になるのだが、何のことはない、グレイは単純にどうしようもない支配欲の塊である以上、行く先々に現れるストーカーと化し、性的な経験が少ないアナを翻弄し、動揺させ、混乱したところを酒の力も使ってパクパクと食べ、さらには自分の思い通りにならない場合はお仕置きと称して虐待する始末、こんな男の風上にも置けない奴をのさばらせておくわけにもいかないと思っていたところでグレイは実は悪魔であることが判明し、慌てたアナは教会へと逃げ込む。必死に神に祈りを捧げ、教会の不可侵領域にすらやすやすと侵入し始めるグレイに、とうとう神は怒りを覚えたのかアーノルド・シュワルツェネッガー演じるジェリコ・ケインを召喚し、神の業火が彼の住まうビルディングを破壊、グレイは地獄へと飲み込まれて死んで行くのだった。そしてアナは永遠に感情を分かち合うことができない悪魔グレイとの別れを、多少の感傷を胸に抱きつつ、修道院へと入っていく……もう二度と誰も愛さないと誓いながら。

 後半は『エンド・オブ・デイズ』(1999年)から。

 さて、本作は私見によるとアメリカ女性におけるセクシーの概念がエロスに敗北した貴重でも何でもない映画だと考える。例えば『ニンフォマニアック』における肉体は、どうにも倦怠なものを抱えていたのだが、本作における肉体はどこか明るすぎやしないか、と思わなくもない。そしてこういった肉体の陰陽は別に本作に限ったことではない。もちろん前者だから、後者だから優れている、優れていないというわけではなく、この主題にとりこの肉体を選択するのは間違ってはないのだろうか、と思うのだ。だから、『エンド・オブ・デイズ』のよく分からない不思議な母子ともどもを吸収していく悪魔による性行為は、彼女たちがアメリカ人であり、明るい肉体を持つが故にどこか健全なエネルギーを吸収しているのだ、という表象になりたのだろうとも思うのだし、これを場所をヨーロッパに移し替えて肉体をすげ替えたとき、その表象はどう考えても搾取のような悲惨を孕んだものになるのだろう。

 かのような意味合いにおいて、本作で描かれている謎めいた性的な懊悩というものは笑止千万というより他はないのではないか、というのが私の感想であり、さらに言えばこれは日本のマンガにおけるある表象と密接に繋がっているような気もする。

 それはりぼんとかちゃおとか呼ばれる、いわゆる少女マンガに属するもので、この少女マンガのジャンルについても内実が多岐にわたる故に、あくまで便宜的な呼称に過ぎないと理解していただきたい。とはいえ、このジャンルにおける王道を割とこの作品は的確に踏まえているような気がする。まず主人公は恋愛に対して得意というわけではないキャラクターであり、対して相手役は恋愛経験が豊富となっている。そして互いによく分からないけれども惹かれていき、よく分からないままに偶然が重なり、よく分からないままに一回目のキスとか体を重ねたりすることがあり、よく分からないままによく分からない理由で互いに反発し、そしてよく分からないままにくっついたり離れたりする。で、やっぱりよく分からないままに互いに好き合っているのである。

 私はこの上記のような少女マンガ的な描写が一時期とても好きでよく読んでいたのだけれども、まあしかし映画で観るようなものではない。