Outside

Something is better than nothing.

『ブレア・ウィッチ』(2016年)

 アダム・ウィンガードの『ブレア・ウィッチ』を観る。

 大学生4人組のうち一人が、数年前に姉をブレア・ウィッチ伝説によって失っており、その執着に基づきドキュメンタリー映画を作ることにかこつけて森に探しに行くが、オカルト好きなカップルの悪戯めいた余興に苛立ちを募らせていると、どんどん状況が悪化していき、本当に魔女伝説に基づく事態が起こり始め、夜は明けず、GPSやドローンをもってしても森を抜けることができないので、彼らは森に、そして魔女に囚われることになり、最初にYouTubeで観たはずの森で発見されたビデオテープの内容が反復される。

 決して傑作というわけではないのだが、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999年)は結構好きだったのでこの作品を観ることにしたのだが、まあそれなりに面白かった。

 状況に対して、当時と現在とで決定的に違うのがテクノロジーの導入であり、というかむしろその差異を明確に表現するにあたって、それしか手立てがなかったように見えなくもないのがある種この表現形式の完成度の高さ(とその限界)を表すような気がしてならず、例えばジョージ・A・ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2008年)ではカメラに対して批評性を持たせていたように記憶しているのだが、ここでの複数のカメラ視点はもっぱらテクノロジーの問題に堕してしまっているようにも見える。だから最終的にやや唐突にも見える冒頭からの反復の意味合いというものは、個人的には好きな表現ではあるのだが唐突な感が否めない。

 結果的に登場人物たちの魔女伝説に対する不信という状況設定自体が実はどうでもいい問題であり、個人的にはもっと足の裏がもぞもぞして欲しかったような気もするし、明けない夜の森を延々と髪の毛がピンクだったり青色だったりする女の子と一緒に彷徨ってみたかったりもするので、その辺りは少し考えて欲しかったような気がする。ある種、原作の忠実な再現と言えなくもない点で、確かに正統な続編と言えよう。

誤った認識に基づき頭を叩かれる

Sharon Corr

 一年ほど前になるが、妻の知り合いと一緒に三人でお酒を飲む機会があり、飲んでいると、その知り合いが私と同じ大学出身ということが判明した。その人の方が年配だったので、先輩後輩という仲になるわけなのだが、それが判明した途端、その方の態度は横柄になり、生意気だということで頭を叩かれたことがある。

 まったくの他人から、このような仕打ちを受けるのはおそらく高校生以来のことであり、私は驚いたのだが、叩いた当人はと言えば、陽気そうにお酒を飲んでいた。私はそれ以来、その人とお酒を飲む機会があったとしても避けるようにしているのだが、妻を通じて何度か誘いをもらっているのだが、そう考えるとその当人にとって、頭を叩くということは何でもないことのように感じられていることが分かる。

 もちろんその人は会社勤めをしており、さらには東証一部上場企業にも勤めている人間なので、コンプライアンスを知らないはずもなく、昨今のハラスメント事情にも通暁しているはずなのだが、しかしながら私が大学の「後輩」――とはいえ、当然面識もないのだから「先輩」らしいことをしてもらったことは一度もない――と分かった途端に、それまで見せていた「知り合い(私の妻)の夫」という認識から、突然「後輩」へと認識を改め、平然と頭を叩ける間柄になったのだと誤認した。

 何も、知らないのである。わからないのである。優しさということさえ、わからないのである。つまり、私たちの先輩という者は、私たちが先輩をいたわり、かつ理解しようと一生懸命に努めているその半分いや四分の一でも、後輩の苦しさについて考えてみたことがあるだろうか、ということを私は抗議したいのである。(太宰治「如是我聞」より)

  もちろん私は当人の「後輩」であるわけではないのだから、その「先輩」「後輩」という関係性が擬似的に構築させられてしまったその瞬間において、太宰治の「如是我聞」を思い出したのは、誤認識の伝播というより他はない状況ではあるのだが、それにしたって私にとって先輩という存在は大体において後輩のために骨を折ってくれる存在であった。少なくとも私自身の先輩の理想像というのは後輩の頭を無碍に叩く存在ではなく、後輩を助ける存在であり、理解者であった。

 実際、その域に達することができていなかったとしても、あくまで理想像としてはかようにありたいものだと私は常々思っていたのだが、かくも無残な「先輩」を目にしてしまうと、若い認識なのかもしれないのだが「このような大人にはなりたくないな」と思うわけであり(とはいえすでに私は充分に大人なのだから、「このような中年にはなりたくないな」が正しい)、東証一部上場企業にあってもなお、このような謎めいた(事実に基づかない)「先輩」「後輩」関係は擬似的に構築されうるのだなと人間というものの持つ認識の精度の悪さをまざまざと思い知らされることになるのだった。

鳩の死

Pigeon

  眠たい目をこすりながら、職場へと向かう朝まだき、駅に向かう狭い通路を通り過ぎているときに、異臭に気づいた。おや、と感じたのを覚えている。

 その通りは昨夜の酔客どもの中身がぶちまけられている実に汚い通りでもあり、しかしそれはそれである種の歓楽を感じさせて止まない。私は放射線状に広がる吐瀉物を眺めるのが、実は嫌いではなかった。それは狂騒、狂乱の結果であり、同時に人々の愚かしさの結晶でもあった。そういう愚かしさは、自分自身にも備わっているものであり、どんなご高説をその席で賜ろうとも、帰り道においては千鳥足であちこちに体をぶつけ、途中で幾度となく嘔吐するのである。かくしてアルコールと財布の中身は、吐瀉物となって無碍に消えていく。その胃の内容物の残骸に鳩が群がって、中の、おそらくはシメの一杯ということでラーメンを食ったのだろう、なぜかピンク色に染まった麺類を啄んでいるところを見て、どうにも哄笑しそうになってしまったこともあるくらいだった。近くにいた、一体どういう生活をしているのか分からない二日酔いを体現したような女も、それを見て呵々と大笑した。

 都会の鳩は汚い。私は田舎の生まれだから、都会に来たときに鳩の汚さと、あまりの人慣れの具合に驚いたものだ。ほとんど手で掴めるではないかという距離でさえ、彼らは逃げない。羽根がついていることを忘れてしまったかのように、鳥らしさを忘却して走り去る彼らを見るたびに、都会の鳩の堕落を思った。尾道浄土寺にいる鳩は、餌を持たない限りは決して人に近づかないのを思い出した。奴らは人を毛嫌いして、打算をもってしか人間に近づかなかった。そして私にとっては、その方が鳩らしいように思われた。

 ところが都会の鳩は、あまりに人に慣れすぎている。鳥らしさを喪失してしまっている。通勤する人々の合間を縫って、地面に落ちた誰のものとも知らぬピンク色の麺類を啄む彼らは、私たちと同じものを食べてしまったが故に人間に近づいたのだろうか。あのピンク色の麺類が、薄汚い都会の鳩の身体を構成している。だからなのかもしれないが、彼らは鳩のようにはまったく感じられない。人を避ける様は、行き交う人々の動きとどこか似ていた。

 その日もまた、いつもと同じように吐瀉物を啄む鳩を、私はどこかで想像していた。安易な発想と言ってもいいのかもしれないし、あるいはそれこそが日常性だと言ってもいい。けれども私が出会ったのは、首のない鳩の死体だった。

 それは日常を簡単に打ち壊してしまうほどに凄惨な現場だった。私はどうしてまた、こんな凄惨な殺され方をしなければならなかったのか、と思った。鳩の首はもぎ取られ、おそらく相当に抵抗したのだろう、辺りには鳩の死体を中心として、放射線状に羽根が散っていた。どこか儀式めいていると思ったのを覚えている。それほどまでに異様さを醸し出していた。

 野良猫か、あるいは鴉か、いずれにしても何ものかに襲われたのだろう。首をもぎ取られているその傷口から、腐臭が臭い立った。ちょうど暑くなってきた頃だったので、そのむわんとした臭気に鼻をしかめ、凄惨さに思わず目を伏せた。私は見てはならぬものを見てしまったような、居心地の悪さを感じられた。人々は、その凄惨な殺され方をした鳩の死骸を、まるで存在しないもののように避けて通っていく。

 都会の鳩の行く末は、人々そのものを啄みながら人になりきれず、かような無関心の中に凄惨さを隠して、おそらくはゴミ処理業者にあっさりと処分されていくに違いない。非情なものを見たという感じがしたので記しておく。