Outside

Something is better than nothing.

『スペクトル』(2016年)

 ニック・マチューの『スペクトル』を観る。Netflixで視聴可能。

(数週間前に観て感想を書くのを忘れていたので、ざっくりしています。あしからず)

 東欧モルドバで紛争が起こり、兵器開発者であるジェームズ・バッジ・デール演じるクライン博士は現地で起こる謎の現象に対応するために派遣される。そこでは「幽霊」のようなものが人々を襲っており、触れると命が奪われてしまうほどの猛威を振るっていた。現地の軍隊とともに対応を練っていくうちに、ゴーグルの技術を応用した方法で彼らを可視化することができたのと、純鉄に弱いということが分かるのでそれらをまいて対策を練っていたもののじり貧になるというので決死の逃亡を企てて逃げる。そして発電所が怪しいということが現地で助けた少女の言から分かり、そこに突入すると高エネルギーを用いて人体を霊体にし、兵器として用いていることが分かったのでそこを破壊する。

 ……といったような話だったと思うのだが、そこそこのテンションがあって面白かったのだが、正直なところあまり肌に合わない作品だった。

 どちらかというと状況がまずあって、そこに理由を後づけしていくような印象があり、場面場面の転換と登場人物たちの行動に対して、あまり理解を示せなかったというところが最大の理由だと思われる。「幽霊」と「発電所」があまり結びつかず、もちろんSFで軍隊で、となると、オカルトに持っていく大技も難しいというところに理解は示せるのだが……消化不良であった。

『アサシン クリード』(2016年)

アサシン クリード I+II ウェルカムパック【CEROレーティング「Z」】
 

  ジャスティン・カーゼルの『アサシン クリード』を観る。原作ゲームはクリアこそしていないものの、少しだけ触ったことがある。

 マイケル・ファスベンダー演じるカラム・リンチは幼い頃に父親が母親を殺害するところを見てしまったことも関係したのか、長じてから殺人犯になり死刑判決が出て、死刑が執行される。しかし目を覚ますと、マリオン・コティヤール演じるソフィア・リッキン医師がおり、アニムスという機械を用いて、遺何やらあらゆる暴力を遺伝的に消し去るために、伝子記録に記されている祖先の記憶をトレースして欲しいということで、ジェレミー・アイアンズ演じる彼女の父アランの強行によって有無を言わさず遡行することになる。時はスペインで異端審問が盛んだった時期で、アサシン教団はテンプル騎士団と「果実」を巡る争いをしていた。カラム・リンチの祖先であるアギラール・デ・ネルハはアサシン教団に誓いを立て、アリアーヌ・ラベド演じるマリアとともに王子と「果実」の奪還に動く。しかし、テンプル騎士団の方も黙っているわけではなく壮絶な戦いが起こるのだった。最終的に「果実」はアギラールコロンブスに託したことが分かり、その隠し場所にソフィアたちは赴こうとするものの、過去の記憶を取り戻した被験者たちによる反乱が勃発し、現代でもまた争いが継続してしまう。イギリスで騎士団が「果実」を取り戻したことをアランが演説しているところに教団が襲撃し、ふたたび「果実」はアサシン教団の元に戻るのだった。

 といったどうでもいい話を延々とする映画、が、この作品であるのだが、個人的にはかなりの凡作だろうと思う。

 絵として非常的に魅力的な中世での戦いというのは、アニムスによる諸々の操作によってそのテンポが阻害され、なにぶんゲームをきちんとしていないので少し外しているのかもしれないのだが、まるで「ゲームのロード画面」のように鷲が中世の空を飛んで、当時の状況に話が移る、といったシーンがたしか三回ある。どう考えても無駄である。

 こちらのテンションと映画として目指していた方向性が違う、ということもあるのかもしれないのだが、もう少しアサシンの、アクションスターっぽいところではなく、ソーシャルステルスを駆使して対象を暗殺したり、イーグルダイブで藁に突っ込んだり(二回突っ込むのだが、一度目はぶつ切り、二度目は水中)、巡礼の群れに入り込んでお祈りをするとか、ああいうことを画面に映すべきではなかったのか、と個人的には憤慨している。

 要するに現代編のどうでもいい陰謀めいた話が無用であるわけで、どうしてこれをメインに据えようとしたのか、何かもう少しまともな話にできなかったのか、と疑問で仕方なかった。

 これを観ながらずっと考えていたのは、あれだけ腐されてもいる、同じく人気ゲームの実写化であるところの「バイオハザード」シリーズ、そして監督のトーマス・W・S・アンダーソンというのは、決して面白くない映画(とそれを撮る人)というわけではなく、実は極めて優秀な監督だったのではあるまいか、と思うのだった。

 

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家々の変遷

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 何十年か生きていくと、住んでいる場所がいつの間にか過去のものとなっていることはよくあることで、一箇所に定住するということはけっこう難しい。それだけの資本があるのであれば、半ば強制的にその資本の磁場に囚われてしまうことになり、それはもちろん地元も同様ではある。

 とにかく、東京などという砂漠に住まうということは、折に触れてその居住地を変更するということを意味するわけで、だからすでに東京に来てから十年が経過しているのだが、三回引越を経験することとなった。

 私は引越が嫌いだ。

 そもそも自分の荷物というのは雑多で面倒臭い存在であり、また自分の分身ですらあるので、それをある規則性によって選り分けていき、整理整頓、段ボールに突っ込んでいく作業というのは苦痛ですらある。

 だから、就職が決まって引っ越しするときに、翌日に迫った引越日にもかからわず、まったく整理ができておらず、やむなく当時の彼女(現在の妻)に泣きついて手伝ってもらった。彼女は言うのだった――「ひどい」と。まったく当然である。

 引越についてはいいとして、引っ越したあとも、私は元の住まいをたびたび訪れた。正直に言えば、自分の青春を過ごした場所ということもあって思い入れが深かったのだ。

 そのアパートは、私が退去する前後に老朽化のために建て替えるというアナウンスがされていて、仮に就職先に社宅がなかったら住み続けたかったなあ、という甘い思いは打ち砕かれてしまうのだったが、就職後しばらくしてそこを訪れると、未だにそのアパートは残っていた。

 どうやらまだ人が住んでいるらしい――と窓の様子を見て感じた。そこで住んでいた当時を思い返して、時間の経過について懐かしさを覚えていた。

 その後、一年くらい経って訪れると更地になっており、どうやら最後の一人に手こずっていたのだろう、誰もいなくなったアパートを大家の思惑通りに破壊することができたのだった。私は自分の居場所を失ったように感じられ、寂しく思った。

 またその一年後くらいに訪れると、そこは建設現場になっていた。いったい何が建つのかは分からなかったのだけれども、またアパートが建つのだと思い、そこに住む可能性というものを想像した。

 そして先日そこを訪れると、アパートは一軒家に変貌していた。

 私は呆然とした。すでに表札がかかっていた。誰かが住んでいるのだ。私の中にはもうそこに戻れるかもしれないという可能性が決定的に失われてしまっていた。

 家は立派で、そこに住んでいるのはおそらく幸福に包まれた人たちなのだろうと思われた。その堅牢さは、未来に向かって続いている。私が介在する余地がないくらいに、決定的なものとしてそこにはあった。もはや私は過去を物としては失ってしまったのだった。あの日々は、記憶の中でのみ生きるしかなく、懐かしさを喚起するための媒介はもはやこの世にはない。