Outside

Something is better than nothing.

『iBOY』(2017年)

 アダム・ランドールの『iBOY』を観る。Netflixで視聴可能。

 ビル・ミルナー演じるトムはギークな少年で、イギリスの団地に住んでいた。そこには高校の友人も多く住み着いている場所で、トムはメイジー・ウィリアムズ演じるルーシーという女の子にほのかな恋心を感じているのだが、ある日彼女の家にギャングが襲撃されてしまう。その日、トムは彼女に勉強を教えに行く予定だったので、襲撃途中の彼女の家を訪れ、ギャングたちの攻撃を受けてしまうのだが、携帯電話を持っていた所為で、耳の下辺りを銃撃されたときに、その携帯電話が埋まってしまう。そのことがきっかけでトムは、超能力を持つようになる。電子機器を自由自在に操ることができる能力だった。トムはその能力を駆使して、ルーシーを襲撃した犯人を探すことになるのだが、なんと犯人はクラスメイトの悪ぶっている連中で、調べていけば背後に本物のギャングが存在していることも分かる。トムは彼らを追い詰めていき、しかし反撃にも遭いながら、ルーシーのために正義を実践するのだった。

 基本的には『クロニクル』(2012年)の路線だろうと思う。もっと背後には(あまり詳しくはないけれども)アメコミ世界の倫理観があるのだろうとも思う。舞台がイギリスに据えられて、おそらくイギリス的なミドルクラス以下くらいの若者の暴力が、そういったテクノロジーによる超能力と結びつき、男女のほのかな恋愛といった若者の青春っぽさをまぶしたところでこの映画が完成する。

クロニクル (字幕版)

クロニクル (字幕版)

 

 力を持つ者が、正義のためにその力を振るうときの倫理観というテーマはかなり見慣れたもので、そういった意味では新鮮味はないのだけれども、もちろんそれはタイトルにある「BOY」という言葉が明瞭に物語っていることでもあるのだし、この映画の若者の状況は団地に住む過程で必然的に出会う「暴力」(ギャング)を背景にしているわけで、もちろんそこには貧困という問題があるのだろうとも思うのだから、『クロニクル』を観た方がまだ時間的にはいいのではないか、と思う。

 ヒロインを演じたメイジー・ウィリアムズは奇妙な魅力を画面に映し出すことに成功していて、その意味では彼女のお陰で映画が多少はましなものになったとは思うものの、コンセプト自体が二番煎じもいいところなので、やはり新鮮味はない。「iBOY」というタイトル的にも、この「i」って何よ、結局と思ってしまうような、「クロニクル」ほど大仰ではないけれども、最初から小さくまとまっていますという居直りも意味しているようで、そういう意味ではコンパクトに手堅くまとめた作品だった。

『ズーランダー No.2』(2016年)

  ベン・スティラーの『ズーランダー NO.2』を観る。

 冒頭イタリアでジャスティン・ビーバーがキメ顔を残して暗殺されるので、 ペネロペ・クルス演じるインターポールの捜査官ヴァレンティーナは同様のキメ顔で死んだポップスターが多くいるため、キメ顔に何か意味があるのではないかと、そのキメ顔こと「ブルー・スティール」を作り出したベン・スティラー演じるデレク・ズーランダーを探す。しかしながら、前作で字が読めない子供たちのための養護施設を造り、わずか二日後に崩落してクリスティン・テイラー演じる妻マチルダを失ってしまい、生き残った子供とともに生活するものの、パスタがまともに作れないということで児童養護施設に子供を奪われて失意のズーランダーは隠遁生活を送っていた。同様にオーウェン・ウィルソン演じるハンセルも、前述の事故の影響で美しい顔にほんの少しの傷を負い、常にマスクを被るようになって砂漠に引きこもり、多種多様な人々(と動物)との性的に放埒な生活を送る。モデルから引退した二人に、現在のファッション界の大物クリステン・ウィグ演じるアレクザーニャがオファーを出し、ズーランダーは子供と再会するため、ハンセルは性的放逸の結果、大量の子供が生まれ「父親」になるように迫られ、元々ハンセル自体が父親との確執があったために覚悟が決まらなかったことから、二人はローマに赴く。そこでズーランダー・ジュニアとも再会したり、産廃施設で行われたファンションショーに出演してベネディクト・カンバーバッチ演じるオールというモデルに挑発されたりしながら、そんなこんなで陰謀としてはアダムとイブの他にスティーブというものがいたということで、その「スティーブ」がズーランダーの息子で、その彼、「選ばれし者」を生贄に捧げることで永遠の若さを得ることができるらしいのだった。黒幕はウィル・フェレル演じるムガトゥということで前作の悪役が今作でも悪役になっている。

 基本的におバカな作品を目指して作られているので、真剣に論評することもないのかもしれないのだが、個人的にはペネロペ・クルスがあまり噛み合っていなかったことと、ベン・スティラーの妻でもあるマチルダ役のクリスティン・テイラーの美しさが堪能できなかったことが残念でならず、ジャスティン・ビーバーの死に様は面白かったのだが、それ以降は予告編以上の面白さはあまりなかった。

 とはいえ、オーウェン・ウィルソンの放逸っぷりは相変わらず笑えたし、ズーランダーのバカっぷりも楽しかったのだが、ちょっとピントがずれてしまったのであった。

【2017年2月27日、タイトルの表記を訂正】

小説のエネルギー

 

Energy

 久々に小説を書くようになって、その書きっぷりがまた単に書くことが可能という状態ではなく、思考自体が小説を書くものに変貌している、ということに驚いている。具体的には記述の果てにぐちゃぐちゃした、時に矛盾するセンテンスを書けてしまっているというところで、ややもすれば無意味になりかねないセンテンスを書きながら、とんでもない幸福に浸っている。そしてその巨大さが、同時に大きな落胆をも呼び起こしている。

 平坦さだけが、あるいは普通さだけが思考の中心にあるときには、それはそれで穏やかではあるのだが、けれども何か物足りない。物足りないということは、何かに不満を持っているということになるのかもしれないのだが、そういうわけではなく、単に思考の向ける先が異なっているというだけなのだ。

 小説を書くとき、物凄い量のエネルギーが、どんなに稚拙なものであっても入り込んでいて、そのエネルギーを制御しながら、抑えきれない何かが小説を突き進めていく。小説の思考というものはとんでもないエネルギーの渦中にあるということだと思っていて、そのエネルギーは小説を書き続け、小説について考え続けることでしか到達できないと、少なくとも私の場合に限れば、思う。